投稿日:2011-01-31 Mon
解散ライヴのその日、BB streetは人で埋まった。こいつら、今までどこに潜ってたんだ。こいつらの半分でもいいからライヴ来てくれてりゃ、解散なんぞしなくても良かったのに・・・と思ったが、ハタと気がついた。
結局、祭なんである。OLEっちの時と同じ。
祭に乗じてバカ騒ぎしたい連中が集まってるだけで、多分ファンと云えるような観客は1割もいなかったろう。
そう思ったら、オレもバカ騒ぎの気分でやろう。どうせ最後なんだし、しくじろうがどうしようが知った事か。
少なくも、今までになかった大観衆を前に、思い切りやろうと決めた。
祭、上等。乗っかってやる。
こうして、大盛り上がりのうちにがきおやじ最後の舞台は幕を下ろした。
打ち上げは、同じセルテビルの魚民で。
ナゼか、乾杯の音頭はオレだった。
翌日にまたがって呑んだ。ひたすら呑んだ。
後日、日を改めてオレん家でメンバーだけでお疲れ会をやって、がきおやじは終わった
それから一年が経った。
とあるファンが復活署名運動を始めた。
オレは、やりたきゃ勝手にやれ、のスタンスである。
署名なんぞ集まるもんか、と。
第一、あれだけ盛大に解散したバンドが、たった一年で復活だなんてみっともない。
ところが、結構な数の署名が集まり、見せられるとオレとしても考えざるを得ん。
ほとほと、手前ェのお人好しさ加減に呆れる(苦笑)。
メンバーに連絡して、話し合った。
再結成に関して、平野壮もテルも実はあまり乗り気ではなかった。
しかし、一年の時間をおいてまたこのメンバーで音出してみるか、この際、この祭に乗っかってみるか。
かくして、復活宣言から半年後の復活ライヴを経て、現在に至る・・・
これでオシマイ!
あぁ~長かった!(笑)
スポンサーサイト
投稿日:2011-01-30 Sun
解散を発表してすぐのライヴは、秋葉原PAGODAだった。サウンドチェック終わった後、長らくご無沙汰のファンから一本の電話が。
「解散するって本当?こっちには来てくれないの?」と、まくしたてた。
「無理だよ」
「どうして?酷いじゃない」
「そっちまで遠征する体力がバンドにありゃ、解散なんぞしないよ」
相手は一方的に不満を云って電話を切った。
他にも「解散?どうして?」と云ってくる人は多かった。
オレの答はいつも一緒。
「あなた達が来てくれなかったからです」。
解散に文句云ってくる連中は、大概ライヴには来ないヤツばっかだった。
逆に、よく来てくれてたファンは解散に関して何も云わなかった。
現場の状況を知ってるだけに、さもありなんと思ったのだろうか。
いや、本当のファンだからこそバンドの決定を素直に受け入れたんだと思う。
解散決定した時点でもライヴは色々決まってたから、決まってたライヴは消化しなきゃならない。
カウントダウンって事で、一回一回大事にやろうと。
ラストライヴは、鴨川の宝石屋さんでのストリートライヴの予定だった。
その時点で決まってる予定が、そこまでだったから。
別に、解散を謳ったライヴなんぞやらなくてもいい。
花道なんかいらない。フツーにやって、フツーに終わろうと。
だが、横浜のホームグラウンドだったBB streetから、最後の最後はウチでと声がかかった。
結局、ちゃんとした解散ライヴがセッティングされる事となる。
つづく
投稿日:2011-01-29 Sat
テルが辞めたい、と云ってきた。理由の真相は本人のみぞ知る事で、とりあえずオレらが聞いたのは、自分のプレイに対する苛立ちのような事だった。
普通なら、引き留めにかかるところだが、それが出来なかった。
こんな状況で何を引き留められるのか。
オレ自身、バンドへの情熱がダウンしてきていて、テルを説得できるワケもない。
平野壮と電話で話し合った。
オレの結論は一つ。
「解散だな・・」
他のメンバーを入れる、という選択肢も勿論あった。
もともと、がきおやじはメンバーチェンジの激しかったバンドだ。
しかし、オレはどうしても他の面子のいるがきおやじはイメージ出来なかった。
平野壮も「そうだね・・・」と。
平野壮も長い車中生活に疲れてもいたろう。
実にすんなりと解散は決まった。
決めたからには、早く発表した方がいいだろうと、その夜がきおやじのブログに書いた。
書き終わって送信した後、オレは泣いた。
涙がこぼれて、どうしようもなかった。
つづく
投稿日:2011-01-28 Fri
相変わらず動員に苦戦する日々は続いていた。茂原でやった時なんか、スタート時間になっても観客ゼロ。
仕方なく待機して、お客さん2、3人来たところでスタート。
かなり押したんで2セットやる予定が1セットに、なんて酷い時もあった。
それでも鴨川なんかはそれなりに入ってたから、地元で懸命に集客してくれてたんだろう。
今でも頭が下がる思いだ。
確かに千葉方面に遠征する事が多くなってはいたが、そうなるとまた「千葉ばっかり・・・そんな遠いとこ行けません」とか、千葉以外のお客さんが文句を云い出す。
んじゃ、ってんで横浜やら東京やらのライヴを入れても「そんな平日、仕事で行けません」だの「その時間じゃ間に合いません」・・・結果、客席は毎度ガラガラ。
正直、「ンなら、どうすりゃいいんじゃい!手前ェの都合に合わして欲しいんなら、プライベートパーティーでも企画して呼べやー!それとも、来るかどうかも判らん連中にいちいち都合聞いて回ってからスケジュール決めろとでも云うんかい」みたいな。
勿論、観客やファンに対して口に出して云った事はないが、かなりキレかかってたのは確か。
何がファンだ、不安やないか・・・毎度、判で押したような口先だけの「ファンです」「応援してます」「頑張って下さい」・・・お前が頑張れ。
演者が決して云ってはいけない事なのかも知れん。
が、そんな横柄な事を考えてしまうほど、気持ちは荒んできていた。
そういう時こそ音楽の事のみ考えて、打ち込んでいればいいものを・・・以前のオレならそうしていた。
だが、状況はそれを許さなかった。
かくも、バンドを維持していくという事は困難かつ複雑なのである。
つづく
投稿日:2011-01-27 Thu
一週間の沖縄ツアーから帰ってきて、年末の「OLEっち」に出演(12月は沖縄合わせて2回出た事になるな)。大晦日は鴨川「風雲」でカウントダウン、と慌ただしかったがきおやじの二年目は終わった。
明けて翌年、きゃんひとみ姉さんの紹介でbayFMの番組「JAM PUNCH」にエントリー。
これまたリスナーの投票番組で、簡単に云えば勝ち抜くと番組のイベントライヴに出演出来るという。
勿論、オンエアもアリ。
投票結果が出る一ヶ月ばかり、毎週のようにオレらも出演。んで「ばらっく式」から毎回一曲かかる。
最後、投票結果が出るって時も番組に出て、出番終わったんでオレらは帰った(結構、長い時間帯の番組だった)。
そろそろ結果が出るって頃、大黒のSAに車停めてラジオを聴いたんだ。
結果は見事、対戦バンドに大差をつけて、ららぽーとでのイベントライヴ出演権を勝ち取った。
もうそろそろ、こういうドキドキは勘弁して欲しいよなー、とか云いながら、それでもやっぱ嬉しい。
だがこの後、この一件はひと悶着あったんだが、まぁ今さらここに書いても仕方ない。
とりあえず、それなりに出演してJAM PUNCHは終わった。
春先にはテレ玉のオーディション番組に出演(この番組の事は以前書いたね)。
何やかやと精力的にやってはいたものの、今ひとつ煮え切らない状況が続いていた。
つづく
投稿日:2011-01-26 Wed
さて、二度目の沖縄はライヴ以外にもラジオ出演やらもあって。「OLEっち」の事務所スタッフに、また沖縄行くんだと話したら、じゃあ向こうから出てよって事になり、電話出演する事になってたんだ。
あと、沖縄ローカルの番組も決まってて。
ライヴは2本。
北谷の「MODS」というコヤと、首里の「Sing」というコヤ。
北谷の方は地元のバンドのライヴにお邪魔するカタチで、オープニングアクト。時間も短かった。
対して、首里の方は完全にワンマン。こちらはたっぷりと。
この時の録音やら映像が残ってないのが残念だが、多分それは「残すな」という事だったんだろうと思う。
今でも、あの駆け足で過ぎ去った沖縄での一週間は何だったんだろう、とふと思う時がある。
泡のごとき儚き夢のままで良かったのだ。きっと。
つづく
投稿日:2011-01-25 Tue
ほぼ半年ぶりに降り立った沖縄の地。空港には沖縄ブラザー数人が出迎えに来てくれていて、確かその足で波の上ビーチに直行したような。
ような・・・と云うのも、機内でやる事もないし、また沖縄へ行ける嬉しさで、延々と呑み続けてて、那覇に着いた時にはすっかり出来上がってたという・・・よって、細かい記憶がトンでしまってるんだ。(苦笑)。
とにかく、あちこち訪れてるうちにアッという間に夜になり、オレは待ってましたのスナック「由」へ。
ママも大歓迎してくれて、気がつくと朝。
もうほぼ24時間くらい呑み続けでベロベロ。
宿に帰り着いたのは朝の8時だったか9時だったか・・・メンバーが寝てるとこ掻き分けて布団に入り、夕方目ェ覚ますと誰もいない。
一人でボーッとしてると、平野壮から電話。
フラッとパチンコやり出したら凄い出てるんで、帰るに帰れないだと。
みんなに小遣いくらい渡せそうだから待ってて、だって(笑)。
まぁゆっくりやって来いよと。
そう、のんびり出来るのもこの日までで、残りの5日間はスケジュールいっぱいなのだから。
因みに、平野壮がパチンコで儲けた金は、ヤツとテルで使い切って帰ってきましたとさ(笑)。
つづく
投稿日:2011-01-24 Mon
再度の沖縄行きが決まって、また慌ただしくなった。とにかく沖縄ブラザーに連絡して、ライヴ出来るコヤをあたってもらい、押さえてもらって。
もうひとつ問題があった。
CDが足りなくなってきてたんである。
急遽、再プレスをかけるべく事務所に相談。
安くプレス出来るところを教えてもらったが、安いだけあってCD-R。
その代わり、初回プレスにはなかったレーベル面の印刷が出来るという。
そうすると「ばらっく式」は2バージョンが存在する事になるが、でもまぁ、沖縄ツアーに間に合わせたかったんで、とにかく発注した。
納品日はこれまた、沖縄に発つ前日。
またまたハラハラするハメに。
この頃、もう年末だったが平野壮は1ヶ月のOLEっち生活が原因でアパートを追われ、車の中で生活していた。
ライヴある時、迎えに来るんだが、その時オレん家でシャワー浴びて行くのが定例で。
沖縄入りの前日は、完全にオレん家に泊まったんだが、する事もないから酒盛り。
その最中に宅配便が。
無事、再プレス分のCDが届いた。
ほとんど寝ないまま、翌日の朝早く羽田へ。
前回から約半年経って、再び沖縄へ飛びたった。
つづく
投稿日:2011-01-23 Sun
レコ発ライヴの後もライヴは勿論続けてて、お陰様でCDのセールスも好調だった。しかしオレらは、このCDを引っ提げて何とか沖縄でライヴやれないもんか・・・と思っていた。
だって、沖縄なくしてこのアルバムは出来なかったんだから。
沖縄が作らせてくれたアルバムと云っても過言ではない。
当時ホームグラウンドだった、BBストリートにレコ発の流れで出た時、珍しく打ち上げに出た。
その時、オーナーの小澤さんがいて、酔った勢いで「小澤さーん、沖縄行かせてー」とか、冗談云ってたんだ。
因みに、この小澤さんは沖縄に大変造詣が深く、沖縄料理を出すライヴハウスをオープンしたほど。こけら落としのイベントにはオレらも出演しているし、OLEっちの時も色々と沖縄でのアドバイスしてくれた(以前書いた地下組織は、この小澤さんの紹介・笑)。
んでまぁ、オレは冗談のつもりで「行きてー。行かせてー」とか云ってたんだけど、小澤さんは「そうだな・・・CDも作ったんだし、このタイミングでやった方がいいな・・・よし、費用は面倒みる」
「え?マジ?」
唐突に沖縄ツアーが決まった。
つづく
投稿日:2011-01-22 Sat
結局、ライヴ日程を変える事なく予定通りライヴは決行。不安なまま現場入り、サウンドチェックしてたらまさに音出ししてる最中に、CD到着!
一時サウンドチェック中断して、CDをチェック(笑)。
段ボール開けて、最初の一枚のキャラメル剥がしてる時に、平野壮がコーフンのあまり(?)落としてしまったのを、ナゼか良く覚えてる。
とりあえずCDが届いた事で、ホッとしてサウンドチェックに専念できた。
この日のライヴは、がきおやじレコ発イベントとして行われた。
対バンも全てオレらが選んで頼んだし、「中国釣具店」のアッキュー君が総合司会を引き受けてくれ、全体を進行してくれた。
この時は入った。お客さん。
もういっぱいだった。
こんなに入ったのは初めて。
今までのモヤモヤを吹き飛ばすような入り。
CDも飛ぶように売れ、シークレット盤も勿論、完売。
何だか、少し報われたような気がした、この日のがきおやじであった。
つづく
投稿日:2011-01-21 Fri
事務所からようやっと、ヒーロー~のストリングスバージョンが届いた。まあ立派になって・・・(笑)。
確か、お茶の水だったと思うが、とある学校の学園祭に出演した時の車中でメンバーに聴かせたが、みんな「おぉ~」と。
んでオレは、完成したシークレット盤を聴かせてもらった。
あまりのバカバカしさに、大笑いしてしまった。
こうして「ばらっく式」に関する全作業も終わり、マスタリングして事務所へ。
後はプレスを待つばかりとなった。
しばらくして事務所から納品日について連絡来たんだが・・・ナント、レコ発ライヴ当日ではないか!
何かの事故でもあって、間に合わなかったりしたらどうしよう・・・レコ発にレコードが無いなんて、そんな事は避けたいが、工場の都合じゃ仕方ない。
とにかく、届け先をライヴ会場である秋葉原PAGODAに変更してもらい、直接送ってもらう事に。
最悪、間に合わなかった場合、予約だけ受けて後で送るか・・・しかし、その時の送料はどうする、ライヴに来てて送料負担させるワケにはいくまい。かといって、バンドで出す余裕はないだろう。
それともいっそ、ライヴの日程を変更するか。いやそれもマズい。
ウーン・・・と、新たな頭痛のタネ。
全く、どこまでも一筋縄ではいかないバンドであった。
つづく
投稿日:2011-01-20 Thu
9月のアタマからレコーディングはスタート。作業はサクサク進み、結構あっという間だったような記憶がある。
録音よりむしろ、ミックスに時間かけたかな。
それでも早かった。
アルバムはそんな感じだったが、アルバムとは別にサプライズ盤というか、レコ発ライヴ限定シングルを作る案があって、そのレコーディングもしなきゃならず、これはエンジニアはテルがやって録音から何から全部三人だけで。
ジャケットのアートワークは、鴨川で仲良くなった「おはよう!スパンク」でお馴染みの漫画家、たかなししずえ先生にお願いした。
ナント、ノーギャラで快く引き受けて下さり「トタン張りの家」をモチーフにした絵が出来上がってきた時には、メンバー一同大感激。
バックジャケットは、これも鴨川で仲良くなって、プライベートにまで大変お世話になってるファン代表の樋口氏。
彼は趣味で絵をたしなむのだが、これがいい絵を描くんだ。
是非描かせて欲しいと云うので、お願いする事にした。
ライナーノーツの執筆を、きゃんひとみ姉さんにお願いしてみたら、これも快諾してくれて、着々と準備は整いつつあった。
しかし、肝心のアルバムタイトルがなかなか決まらず、難航。
最初、ズバリ「歌謡曲」ってなァどうだ、とか今回のウリである曲である「トタン張りの家」をそのままタイトルにしたら、とか色々と案は出たものの、どれももうひとつ。
結局、オレ大好きな漫画家である、つげ義春の代表作「ねじ式」をもじって平野壮が「ばらっく式」と命名。
アルバムがカタチを整え出し、レコ発ライヴも決まり、いよいよ慌ただしくなってきた秋だった。
つづく
投稿日:2011-01-19 Wed
鴨川に行き出してすぐの頃、青山にある「OLEっち」のレーベル事務所に行ったんだ。色々と話はしたんだが、事務所側は、協力するからアルバムを作らないかと提案された。
そりゃフルアルバム制作はオレらの悲願だったし、やれるもんならやりたい。
しかし、現実的な問題が山積みで踏みきれないでいた。
そこに、降って湧いたアルバム制作の話。
レーベル全面協力なら、とスタッフに後押しされる形でやってみようかとなった。
ただ、事務所側から一つ条件がある、と。
ん?何かややこしい事云ってくんのか、と身構えると(笑)「ヒーロー~をこっちのアレンジで収録してくれないか」と。
「え?アレンジって、また作り治すの?」
「いやいや、今あるヒーロー~にストリングス被せたいんだよね。実はもう、大体の構想は頭の中にある」
オレらは、どうぞやって下さいと。
オレらの曲に外部の人間が関わって、どんな感じになるのか大いに興味もあったしね。
晴れてアルバム制作は決定。
その帰りの車中で収録曲もすぐ決まり、そのままオレん家でミーティングして曲の順番まで決めてしまった。
後はスタジオを押さえるだけ。
スタジオが空くのを待って、アルバム制作決定から僅か二週間ほどで、レコーディングは始まった。
つづく
投稿日:2011-01-18 Tue
オレらが「OLEっち」に出てた時、入院してて病院のベッドで放送聴いてくれてたらしく、最後メジャーに行けなかったのをこれ幸いと(メジャーに行ったらもう呼べないと思ったらしい)オファーくれたのが、鴨川でライヴバーを営む杉山さん。オレらは鴨川なんて行った事もなく、ひたすら遠いってイメージで。
夕方入ればいいのに、午前中から出発。
ほんの2時間くらいで着いてしまい、三人で公園で暇潰したのを覚えてる。
この日のライヴは、もの凄い盛況でオレらの望みだった一見さんのファンが一挙に増えた感じで、今、平野壮は千葉に住んでるが、それはこの時の流れからきている。
この鴨川のコヤ「風雲」及び、そのオーナーである杉山さんには、本当に何やかやとお世話になった。
この頃から千葉遠征が増えたのは事実で、「OLEっち」にもかなりゲスト出演してたが、この頃はスタジオが渋谷からイクスピアリに移っており、これも千葉。
きゃんひとみ姉さんが紹介してくれた「JAM PUNCH」というラジオ番組、これにも一時期ほぼ毎週のように出演してたが、これもbayFMだったので船橋ららぽーとからの放送。
杉山さんの紹介で、茂原やら鋸南町なんてとこにも行ったし、舘山とかもね。
勿論、鴨川も風雲のみならずイベントとかも呼んでもらった。
別にオレらが千葉に固執したワケではない。
しかし、千葉でやると色んな意味で達成感があったのは事実だ。
有難かった。
つづく
投稿日:2011-01-18 Tue
沖縄にいた時、番組には毎日、何十というメールが来てて中には「早く横浜戻ってきてライヴやってくれ!」とか。オファーはすでに色々あったんで、とりあえず全て受けようと。
ラジオから興味持ってくれた人もいるだろうし、とにかく番組への反響は凄かったから。
メジャーは逃したが、新たなステージが始まるとオレらは信じていた。
確か、沖縄から帰ってきて最初のライヴは本八幡だったと記憶する。
お客さんは二人だった。
早くこっちでライヴやれ!とか云ってきてた連中は来ない。
そういう連中は、ただ祭に乗っかってただけで、別に応援してくれてるワケではない、とその後の動員数で判ってきた。
祭が終われば、ミコシに用はない。
しかし、文句を云ってても仕方ない。やれる事をやるだけだ。
とにかく、一見さんを増やさん事にはどうにもならんと、動員の少なさ関係なくライヴは途切れる事なく続けていた。
そんな中、千葉は鴨川からオファー。
それまで全く付き合いもないコヤで、オレらも戸惑ったが、とにかく来たオファーは受けるってスタンスだったし、全く初めてのコヤなら一見さん増やす絶好のチャンス。
新たな展開になればいいなと、この頃はまだ全然前向きだったがきおやじでした。
つづく
投稿日:2011-01-14 Fri
沖縄から戻ってきて一週間、「OLEっち」からゲスト出演のオファー。一ヶ月に渡るチャレンジに関するトークをしただけだが、この時沖縄にいるチャレンジャーに出されたお題で、オレらも作ってみましょうか?とスタッフに冗談半分で云ってみたところ、面白いねぇとなり、番組で流してもいいよって事で、よし作ろうと。
沖縄から戻っても、まだミッションは終わらない(笑)。
この時のお題は「ラジオ」だった。
すぐに曲作りに取りかかり、本当に一曲出来てしまった。
スタジオ入り、一発録りしてその週の金曜、渋谷のスタジオへ。
スタッフは、本当に作ったの?!とびっくりしてたが(呆れてた?)沖縄チャレンジャーの結果次第で流すからって事だったんで、ロビーで待機。
しかし、流れる事なく番組は終了。
実はこの時のゲストが槙原敬之で、いつもよりスタジオトークが長くなり、時間が足りなくなったのだ。
スタッフが謝りに来たが、別にオレらはそれで元々と思ってたんで、どうという事はない。
放送を終えた赤坂さんが「聴きたい」と云ってきたんで聴いてもらった。
感想は「今日のチャレンジャーの曲よりいいじゃん」。
作った甲斐はあった。
この時の勝手にミッション曲「らじおえいじ」は、ライヴでも一度もプレイする事なく、この一週間のみの幻の一曲となった。
つづく
投稿日:2011-01-13 Thu
沖縄でお世話になった人々、皆さんががきおやじサヨナラ会みたく、それぞれに場を用意してくれて。メジャーに行けなかったオレらに、スタジオのオーナー山城さんが最後の乾杯の音頭。
それは「おめでとう!」だった。
これは忘れられない。
本日、沖縄を離れるという日にオレは無茶苦茶体調が崩れてしまい、空港に行く直前まで合宿所で横になってて動けない有り様。
平野壮は、そんなオレを見て「身体が帰りたくない、って云ってんだ」と。
確かにそうだったのかもシレナイ・・・。
空港には沢山の沖縄ブラザーたちが見送りに来てくれて、別れを惜しんだ。
また必ず来るからな!と、約束して、万感の想いを抱えて羽田へと飛び立ったがきおやじでした。
つづく
投稿日:2011-01-12 Wed
最初で最後のワンマンライヴは盛況のうちに終了した。正直、内容とかあんま覚えてないんだ。
覚えてんのは、ウチナータイムでなかなか客集まらず、だいぶ押してスタートした事ぐらい(笑)。
本番の後、大々的な打ち上げが用意してあり、そっちはよう覚えてる。
これが最後のオモテナシとばかりに、沖縄ブラザーは本当に良くしてくれた。
宴は終わる事なく、朝になって波の上ビーチに移動。
そのまま一日過ごした。
夕方、暗くなってきて、あら?一日経ったんか?と思ったくらい、楽し過ぎて時間の経つのを忘れていた。
沖縄を離れる時は近い。
つづく
投稿日:2011-01-11 Tue

番組出演は終わった。
普通のチャレンジャーは、翌日とかには沖縄を離れるらしいんだが、オレらはちょうどゴールデンウイークに重なってしまい、飛行機が取れなくて後一週間経たないと帰れないとなった。
そういう事なら、もう曲作りからも解放されたワケだし、この一週間は思いきり沖縄を満喫しよう!と。
ますます個人単位での思い出作りが始まった。
と云っても、三人で動く事も多く、今回添付した写真はもう朝5時くらいよ。
どこで呑んだ後なのか・・・多分、由(笑)。
沖縄を離れる日も近い。
オレらは、沖縄へのお礼・・ではないが。どうしても通常のカタチでのライヴがしたかった。
そこでほとんど飛び込み状態で演れるコヤはないか、と探して那覇のギブソンというコヤを見つけた。
行ってみて交渉したところ、是非どうぞって事で、沖縄恩返しライヴ?が実現する事となる。
つづく
投稿日:2011-01-10 Mon
赤坂さんの「がきおやじ有難うー!」の声で放送は終了。しかし、あしびなーの熱気は変わらない。
一曲・・・何やろうか、と思ったが「今日こそ道端だろう」と三人の意見は一致。
オレらはすぐにでもスタート出来たが、PAだか何だかにトラブルあったらしく、ブースからちょっと待ってくれの支持が。
放送後にライヴなんて、今までになかった事らしくスタッフが慌ててるのが判った。
結構、長い時間待たされたのを覚えてるが、お客さんも誰一人帰らず、きゃん姉さんが色々トークして保たせてくれてたんだよなぁ。
そして演った「道端にて」。
オレがきおやじに入ってから、数えきれないほどやってきてた曲ではある。
今だにやってる。
この時、ちょうど夕暮れ時で少し暗くなりかかってて、まさに黄昏時。
そして、デビューを逃した直後でもある。
曲の内容が、これほどシチュエーションとマッチした事はない。
この時の「道端にて」は多分、がきおやじ史上一番だったと思っている。
今でも、こうして書いてて胸が熱くなるくらいだ。
やり終えて、あぁこれでホントにあしびなーは終わったんだな、と思ってるとPAスピーカーから赤坂さんの声が。
「凄ぇ良かったよ!」と。
あら?東京でも聴いてたの?と思う間もなく、東京のスタジオの審査員とか誰一人帰らず、スタジオに残って聴いてくれてたらしい。
ずっと待たされたのは、渋谷のスタジオとの回線のトラブルだったってのを後で聞いて、沖縄のスタッフはオレらの演奏を東京にも聴いてもらおうとやってくれたんだなぁ、と思うと・・・ネ。
結果のみ見れば、残念の一言で終わるのかも知れない。
しかし、オレたちに忘れ得ぬ感慨を残して、とりあえず、オレたちの「OLEっち」チャレンジは、終わった。
つづく
投稿日:2011-01-09 Sun
いつもは舞台からブースに戻って結果を聞くんだが、最終週は舞台の上だった。結果は80点で合格のところ、79点。
1点足らずに敗退。
最終週に挑む前、平野壮と「79点とかって一番イヤだよなー。どうせなら10点とか20点とかの方が諦めつくよな」とか、合宿所で話してたんだ。
沖縄審査員は満点だったが、リスナー審査員の一人目が「4点!」と読み上げられた時点で、オレは「あ、ダメだな」と直感した。
その通り、見事に悔いの残る結果となった。
まぁ仕方のない事ではあるが、応援してくれた人たちに申し訳ないという気持ちが、どうしても沸いてきて。
しかし、レーベル審査員は「こういう結果になったけども、一度トータルに考えさせてくれないか。一度こっちに預けさせてほしい」と提案があり、次につながる希望があったのが救いだった。
赤坂さんは「僕も残念です・・・」と無念の思いを語ってくれて、放送終了間際「お客さんそれだけ来てくれたんだから、あと一曲ぐらいやってっちゃえよ!」と。
この提案に、あしびなーのお客さんはヤンヤの歓声と拍手。
平野壮も「やっちゃいましょう!」
やっと、オレたちにも笑顔が戻った。
つづく
投稿日:2011-01-08 Sat
合格だろうが落選だろうが、どっちにせよあしびなーでの演奏はこれで最後。感無量な思いで、シンバルをカチーン・・カチーンと鳴らしてスタート。
正直、みんな気持ちが入り過ぎていて、演奏のレベルは低かった、と思う。
勿論、オレも含めてだ。
全く思ったようにプレイ出来なかった覚えがある。
平野壮も演奏中、泣き出してしまい言葉に詰まる場面もあった。
オレは叩きながら、こんな気持ちで演奏した事なんて今まで一度もないなぁ、と長いドラマー人生がフラッシユバックして・・・正直、オレはもうメジャーだ何だってのはほとんど考えてなかった。
いや、綺麗ゴトじゃなく、こういう体験が出来た事に感謝、と云うか。
この時の録音が残っているが、それを聴く度に、あの時のあしびなーの風景やら空気が伝わってくる。
決していい音質ではないが、音楽って決してキレイに録るだけのもんじゃないなと、これを聴く度に思う。
それくらい、その場の空気が閉じ込められてて、二度とこんな「トタン張りの家」はないだろうな・・・。
演奏を終えて、舞台から降りる時に平野壮がオレの耳元に来て「泣いちゃったよ、ゴメン」と云った。
オレは「まァまァ・・いいんじゃねぇの?」とか、肩を抱かんばかりに云ったような気がするが・・・。
様々な思いを抱えたまま、最後のジャッジを迎えるのである。
つづく
投稿日:2011-01-07 Fri
迎えた本番。いつものように姉さんの唄からスタート。
これを聴くのも最後か・・・と感慨も深く。
出番になり、ブースに入るとナント「オレたちのヒーローがきおやじメジャーデビューを決めてくれ」の横断幕がバッと目前に。
このサプライズには参った。
観客もズラリといたし、審査員を探すのに苦労していた一週目とかと違って、頑張ってきた結果が目の前にあると思うと嬉しかった。
番組中、これまでのチャレンジを振り返るコーナーがあったが、途中できゃん姉さんが泣き出してしまい、赤坂さんに「アンタ、早いよ!」とツッコまれる一幕もあり、みんながある種の興奮状態だったような気がする。
オレらも多少、慣れてきてたとは云え一週目とはまた違った緊張感で、最後のステージへ上がったのである。
つづく
投稿日:2011-01-07 Fri

いよいよ迎えた最終週。
泣いても笑っても、沖縄生活はこの週でオシマイ。
いつものようにセッティングやリハーサルも終え、本番を待ってると、きゃんひとみ姉さんがオレの元へ。
ついに最後だねぇ、的な話をしみじみしてたが、姉さんが「ひろピー、素人じゃないでしょ?」と。
「あら?バレてた?」
「一週目からバレバレだよ!アタシも色々ミュージシャンと付き合いあるんだから、一発で判ったよ」
「いやー、チャレンジャーはアマチュアじゃなきゃいけない番組だからさー」
「今までにも明らかに、こいつプロだろうってチャレンジャー何人かいたんだよね。ひろピーは久々だわ」
こんな会話が交わされ、そうか姉さんは判ってたんやなぁ、道理で本番中にオレによく話振ってきてたなぁと。
ちょびっと嬉しくなったオレは、いや姉さん実は・・・と、オレがプロとして行き詰まり、苦悩の末がきおやじに加入した経緯とかつい話してしまって。
姉さんは親身になって聞いてくれて「ひろピー、今日は決めようよ」
嬉しかった。
そうこうしてると、東京から荷物が届いてると。
ナンだ?と見てみると、応援のファックスの山。
それと、沖縄以降のファンの方々には馴染みがないとは思うが、当時必ず舞台に置いてた提灯(あ、このブログの壁紙にあるね)。
しかし、コワレモノ扱いしてなかったせいでボロボロに。
おかげでこの沖縄以降、舞台に現れる事はなかった(笑)。
ファックスはブースの周りに貼り付け、沖縄ブラザーも大挙駆けつけてくれ、イヤでもテンションの上がった状態での本番スタートとなった。
つづく
投稿日:2011-01-05 Wed
さて、三週目突破して、次のお題は「無償の愛」。これには、ほとほと困った。
と云うのも、前回のお題「いちゃりばちょーでー」と意味合いがカブってて、サスガに二週続けて似たようなテーマはキツいなぁと。
最後の最後にきて、遅々として曲作りが進まない事態に。
平野壮は一人で車で遠出して、自分探しの旅へ。
その間、オレとテルは合宿所にいたが、平野壮が「ダメだ・・・何かヒントないかなぁ」と、半ば泣き言のような電話かけてきたりして。
やはり、赤坂さんが云ったように無償の愛と云えば母親の事しかないのか。
でも、それはありきたり過ぎて避けたいと。
しかし、ここまで追いつめられて開き直ったのか、平野壮は結局ベタベタな母親ソングの青写真をこしらえた。
決して妥協したとか、そういうワケではなく、一人で物思いに耽っていた時に素直に浮かんできたみたいで、そういう事ならこれで行こうと。
またまたアレンジには頭ァ悩ませたが、考えついたアイデアは全て盛り込んだ。
雨音みたいなシンバルのエフェクトとか・・・。
実は、曲の最後に口笛を入れたいって平野壮のアイデアがあって、ずいぶん練習したんだが上手くいかなくてボツ(後にレコーディングした時に実現)。
悪戦苦闘の末、やっと最後のミッション曲「トタン張りの家」は完成をみたんであった。
つづく
投稿日:2011-01-04 Tue
2011年を迎えて三が日も過ぎ、皆さんどんな大晦日、またはお正月だったでしょうか。私はと云えば、有野課長のゲームセンターCXでもって年をまたぎました。
年明け感、ゼロ!
やはり新年ぐらい、と人並みにおめでとうメールなんかも数人に送らせていただきましたが、かなりの確率でシカト食らい、寂しくなったので途中でヤメてしまいました(苦笑)。
その代わり(?)昔お世話になった師匠格である九州での先輩や、ダチ達と話して「お前のトシじゃまだまだ・・・」だそうです。
親子の関係じゃないけど、いつまで経っても先輩からすればオレは永遠の若手。
腕も上がってねぇし(笑)。
最近、年上の人と接する機会がほとんどなく、自分自身もめっきり老け込んだ感じがしてましたが、60歳になろうかという先輩がバリバリの現役なのを知り、パワーもらいました。
ま、そんなこんなの正月ではございましたが、明日よりまた連載再開します。
チャチャッと今月いっぱいくらいで片付けますんで、最後まで読んでやって下さい。
皆さん、今年もがきおやじをどうぞよろしく!
△ PAGE UP